ノリコ=ポーロの西方見聞録

勉強できない、英語しゃべれない、でも広い世界へ飛び出したい!との思いから、添乗員となり世界中アチコチ飛び回り、様々な人たちとの出会いや交流、旅のドタバタ劇などをご紹介していきます。このブログは、星野管工(株)発行のホシカン通信に掲載しているコラムのバックナンバーです。

留学後半戦

 一年間の英国遊学を終えて帰国した私はツアーコンダクターとなり、
旅に係る仕事に就きました。

 

その後仕事で様々な国へ行き、多くの人々に出会いましたが
今でも「初めての自由旅行」で訪れた様々な街や人々との出会いや出来事は、
私の心に大事な宝物として残っています。

 

 さて活動拠点のヘイスティングスに戻ったものの、
仲間になった友人たちは皆帰国してしまい、
賑やかだった毎日がすっかり寂しくなってしまいました。

 

 そもそも語学学校は「最低二週間から」と書いてあったので、
みんな長期滞在するのかと思いきや、
ヨーロッパの人達は夏休みやバカンスを兼ねていて、
短い人は二週間で帰国してしまい、
やっと仲良しになれた途端にお別れしなければならない。

 それではあまりに寂しいので、長期滞在型の学校に行くことうを決意しました。

 

 今の学校の滞在期間を変更解約して、
隣町のイーストボーン(Eastbourn)に移動、心機一転、
新しい学校、新しいホームステイ先で九月~十二月までの三か月間を
過ごす事にしました 。

 

 今振り返っても、昔の自分からは考えらえれないくらいの
決断力がいつの間にか身についていました。

 

 ヘイスティングスはのんびりゆったりと過ごす
年配の方々に適した閑静な避暑地の町だったのに対して、
イーストボーンは若い学生も多く、
ビーチサイドにはピアと呼ばれる埠頭があり、
その中に日本で言うゲームセンターもあり、
比較的活気のある街という印象でした。

 

 私はこの三か月間も十六歳の娘さんがいる、
ごく普通のイギリス人家族のお宅にホームステイしながら、
お世話になることにしました。

 

 わくわくしながら学校へ向かい、案内されたクラスに着くと、
そこには十二人位の生徒達がいました。

 

 スイス人、スペイン人、ペルー人、そしてクラスの半数を占める日本人。

 

 前の学校には日本人があまりいなかったので、ちょっとびっくりしたのでした。

まさかの!本場パエリア

 翌日、最終目的地であるグラナダ目指してイベリア半島を列車で南下。

 

 途中のバレンシアという地中海沿いの街にも立ち寄りながら旅を続けました。  

 バレンシアスペイン料理を代表するパエリア発祥の地。
せっかくだから是非本場の元祖のパエリアを食したい!と
二人でレストランに意気込んで入り、
海沿いの街だし、
さぞかし新鮮な魚介類が沢山乗ったパエリアが出てくるだろう、
わくわくしてパエリアが運ばれてくるのを待っていました。

 

 しかし、そこには私たちの想像を完全に覆したパエリアが登場!

 

 元祖パエリアは、な、なんと、
骨付きチキンがゴロゴロとサフランライスの上に載ったものでした・・・!

 

 「パ、パエリアって魚介類が上に載っているんじゃ無いんだ~。」
と二人で唖然としましたがなかなか美味しく、
なんだかんだとお腹いっぱい食べて満足したのでした。

 

 さて、お腹を満たした私たちはいよいよ
今回の旅の最終目的地であるグラナダを目指して、
列車、バスを乗り継いで行きました。

 

 グラナダは目の前にアフリカ大陸が迫り、
かつてイスラム帝国の支配を受けた影響から、
エキゾチックな街並みが魅力のスペイン南部アンダルシア地方の中心都市。

 

 かの有名なアルハンブラ宮殿があります。

 

 日本では「アルハンブラ宮殿」と呼ばれていますが、
Alhambra スペイン語ではHを発音しないので、
音的には「アランブラ」と発音しないと通じません。

 

 更にJも発音しないので、
日本の国名Japonジャポンではなくハポンと発音します。

 

 グラナダの宿は語学学校のお友達、
17歳のカルメンちゃん宅。

 

 駅に到着した私たちは早速彼女に電話をかけました。
しばらくして、カルメンちゃんが元気に駅まで迎えに来てくれました。

 

 そのままカルメンちゃんのお宅に荷物を置かせてもらい、
三人でグラナダ観光に向いました。

オレオレ スペイン

 不思議なサルバドール=ダリ美術品の空間を鑑賞した後、
地中海沿いにスペインを南下して一路バルセロナへ。

 バルセロナは、スペイン北東部に位置するカタルーニャの州都で、
バルセロナ県の県都でもあり首都マドリードに次ぐ第二の都市。

 

サッカー選手、アルゼンチン出身のメッシとブラジル出身のネイマールが所属しているというFCバルセロナでも知られています。

 また、かの有名な建築家アントニオ=ガウディのサグラダ=ファミリア教会、グエル公園など建築に興味がある方にはたまらない街です。

 私達は駅前のペンションに宿を取り、荷物を置いた後、
サグラダ=ファミリア教会へ路線バスで向かいました。
 この教会は、1882年に着工が開始して以来
133年が経過した現在でも建築途中であり、
壮大な建築計画を残してこの世を去ったガウディの意思を引き継ぎ、
各国の建築家、彫刻家が完成を目指して日々製作し続けている驚きの教会です。

 私達が訪れた、25年前は足場が組まれた教会内を見学したり、
いくつも聳え立つ尖塔の中にも入ることが出来ました。

 是非2026年に完成した暁には、もう一度訪れてみたいと思います。

 その後、グエル公園等を見学して宿に戻り、
夜はスペインのBARでTAPASというおつまみとともにビールを飲み、
美味しいスペイン料理に舌鼓をうちながら、旅の疲れを癒したのでした。

 因みにスペインの食事時間は非常に長く、
昼は午後1時から午後4時頃までシエスタと呼ばれるお昼寝タイム。

 商店は一斉に昼休みに入り、その間みんなのんびりとワインを
飲みながらランチを楽しみます。
 夜は午後9時から真夜中までおしゃべりを楽しみながら夕食を取る。
 楽しい会話と美味しい食事で日々人生を謳歌しているわけです。

 流石に二十歳そこそこで、スペイン語もわからず、
旅の疲れもある私達は、そんな遅い夕食まで待つことも出来ないので、
地球の歩き方に載っている近所のBARで簡単に食事を済ませたのでした。

南フランスの思い出・・・

 ローマから寝台特急に乗り込み、
イタリア半島を北上してフランス南部にある小さな街
モンペリエを目指して出発して行きました。

 

 寝心地の余り良くない寝台ですが、
そろそろ旅の疲れも出てきた私達は、
翌日の朝から活動する為にも、眠りにつきました。

 

 南フランスと言えば、プロヴァンス地方、
モナコ公国、ニース、マルセイユと海岸沿いに
華やかなリゾート地が続きますが、

語学学校で知り合ったフランス人の女の子が、
モンペリエという街の出身だという事で、
突撃お宅訪問のヨネスケのように半ば無理やりに訪問し、
図々しくもお泊りさせて貰うことにしました。

 

 ただ、どのような街だったのか余り覚えていなくて・・・。

 

  お友達の名前すら忘れてしまいました。
ありがとう!マリールイーズ(仮称)としておきましょう!

 

 当時の私の知識は、
モナコ公国がF1モナコグランプリの開催地である
という事ぐらいしかなかったので、
車窓からの海辺の景色を眺めながら、
「いつかはこんな素敵な高級リゾート地にきてみたいな~!」
と憧れを抱きつつ、車窓の景色を楽しんでいたのでした。

 

 そして、翌日はいよいよスペインを目指して、
モンペリエを出発したのです。

 

 私達がまず向かったのは
かの有名なサルバドール=ダリの美術館がある
スペイン東部カタルーニャ地方のフィゲラスという街でした。

 

 何故この街に立ち寄ったかも定かではありませんが
目的地のバルセロナへの途上にあったので、
せっかくだから寄り道してみよう!
となったのだと思います。

 

 芸術に無頓着な私なので、
すごいなーくらいしか覚えていないのですが、
最近知ったこととして、
スペインの棒付きキャンディーの
チュッパチャプス のデザインロゴの原型を製作したのは、
ダリだったそうです。

 

パッケージデザイナーとしても
すぐれた手腕をダリは発揮したのですね、

なんとも驚きでした。

バチカン市国、おすすめの場所

 スペイン階段から、今度は地下鉄に乗り、目指すはキリスト教カトリック教会の総本山。バチカン市国の中にあるサンピエトロ大聖堂です。

 

 バチカン市国イタリア共和国の中、ローマ市内にある世界最小の国です。もちろん、イタリア語、通貨もイタリアリラが使用できました。

 

 サンピエトロ、つまり聖ペテロはキリストの一番弟子であり、初代ローマ法王です。

 そのペテロがネロ帝(在位西暦五四-六八年)の時代に殉教し、その殉教の地に墓がつくられ、その墓の上に建てられたのがこのサンピエトロ大聖堂です。

 

 サンピエトロ大聖堂を訪れることは、初代ローマ法王ペテロから現在の第266代法王フランシスコまでの、二千年に及ぶローマ教会の歴史そのものを訪れることとも言えるわけで地下には歴代の法王たちの亡骸が安置され、見学することができます。

 

 中でも一番私達を圧倒したのは大聖堂の内部。ルネッサンス時代の巨匠ミケランジェロの描いた豪華で壮大な天地創造に始まる聖書を描いた天井画の装飾です。キリスト教徒では無いですが、流石に厳かな気持ちになりました。

 

 

 因みに、ヨーロッパの教会に行く時は、ノースリーブ、短パンのような露出の多い恰好では中に入場出来ません。夏場は、女性の方は特に気を付けてください。ノースリーブの時でも一枚大きなスカーフをバッグの中に入れておくと肩にかけたり、短いスカートの場合は、腰に巻いたりととても便利です。教会は神聖な祈りを捧げる場所であり、観光客の為の場所では無い、という意識を持ってお出かけして下さいね。

 

 そして、是非お勧めなのが大聖堂のクーポラ(球体)。

 

 上に向かってエレベーターと螺旋階段を登って行くとローマ市内の景色とクーポラ内部に描かれた壁画を間近に見ることが出来ます!

 

 ただし、螺旋階段は、細くて狭いので早く登ると目が回ります。ローマ滞在中の自由時間があればチャレンジしてみてくださいね!

ホントに写真はよく見える 〜トレビの泉〜

 コロッセオから地図を片手にフォーロ=ロマーノ遺跡(Foro Romano:ここは、ローマ帝国時代の政治の中心地であった場所)を横目にみながら、トレヴィの泉を目指して歩いて行きました。

 

 ローマはイタリアの首都だけあり、車の交通量も多いのですが、運転も荒っぽく、あちらこちらでクラクションが鳴り響いていて、横断歩道を渡るのも他の人たちと一緒に渡らないと危いので、気合を入れて街の中心部目指して行きました。

 

 ローマの市街地は古代ローマ時代の遺跡が街のあちこちに点在していて、更には中世の歴史的な石造りの重厚な建物が多く、空があまり見えず、まるで迷路のよう。

 

 そんな状態なので、トレヴィの泉を目指しているであろう団体観光客の後について行き、ようやくトレヴィの泉の前に到着しました。

 

 写真のイメージだと、何か広大な公園の敷地内にでもあるのかと思っていたのですが、このトレヴィの泉も想像していたのと違い、商店、住宅地の密集地の真ん中に突然現れて、ピサの斜塔同様に「え〜、狭い!」驚いたものです。

 

 それでも折角来たので、お約束の行為をガイドブックの記述通りにしよう、と二人して泉を背に後ろ向きに立ち、コインを右手に持ち左の肩越しに泉に投げ入れました。  

 

 ちなみにこのコイン、一枚で再びローマに戻って来ることが出来る。二枚だと恋人に巡り合える。三枚で離婚出来る・・・いくつ投げるかは、あなた次第です・・・。

 

 プチ観光情報として、トレヴィの泉のすぐそばにあるジェラート屋(Gerato:アイスクリーム)さんのジェラートは本当に種類が多く、美味しいので訪れたら是非ご賞味してみてください!

 

 さて、無事にコインも投げたし、次はスペイン階段へ。かの有名なオードリー=ヘップバーンの映画「ローマの休日」で出てきましたが、トレヴィの泉から歩いて十分位の場所。街中の賑やかな土産物店をみながら、すぐです。

 

 実際は沢山の観光客がびっちり腰かけていて、どこが階段なのかわからないほどの人だかりでしたが、一応、有名な名所ということでカメラに写真をパチリと残して、スペイン階段を後にしました。

永遠の都 ローマ

 翌朝、スリ、ひったくりでも世界的に有名な永遠の都ローマの街を観光するため、リュックサックに小さく折りたたんだ市街地図を入れ、パスポート、現金、カード類が入ったキャッシュベルト(腹巻き)を装着し、メトロ(地下鉄)バスの共通一日券を片手に巻き付け、いざコロッセオ円形闘技場)へ向けて重装歩兵のように出発しました。

 

 

 地下鉄のメトロBラインでテルミニ駅から2つ目、コロッセオ駅から徒歩ですぐ到着。

 今思えば、近いから歩いても行けたのですが、せっかく一日券を購入したのに、「利用しないともったいない」というケチ根性というか貧乏性からメトロで向かいました。

 

 地下鉄の階段を上がり、路上に出ると、眩しい太陽の光とともに目の前にはなんとあの世界史の資料集で見たコロッセオが。

 「わーすごい!本物のコロッセオだ!」私は二千年前に建てられた巨大な建造物の圧倒的な迫力の前に、ただ立ち尽くすのみで、その時の衝撃と感動は今でも記憶に強く残っています。

 

 当時は中に入るのも無料だったので、コロッセオ内部のアレーナ、客席まで見ることが出来ました。現在は、入場料がかかるようです。

 

 参考までにコロッセオ(Colosseo)は英語で競技場を指す(Colosseum)コロシアムの語源にもなっています。

 ローマ帝国時代には、奴隷であった剣闘士同士の戦いや、剣闘士対動物の戦い、またキリスト教徒を迫害していた時代には、キリスト教徒を猛獣に襲わせたり、処刑したりしていた場所です。

 「パンとサーカスを!」と言われたように当時のローマは食料と娯楽施設の利用は無料だったそうで、それはローマ市民の政治への不満をそらすための愚民政策であった訳です。

 その後、中世にかけて、バチカン市国にあるサンピエトロ大聖堂の建設の為の採石場として使用され続け現在の姿をとどめています。

 

 様々な感慨に耽りながらコロッセオを堪能した私たちは、お決まりの日本語ガイドブックとハガキを買い求め、次の目的地であるトレビの泉へと移動すべく地図を片手に歩き出したのでした。