永遠の都 ローマ
翌朝、スリ、ひったくりでも世界的に有名な永遠の都ローマの街を観光するため、リュックサックに小さく折りたたんだ市街地図を入れ、パスポート、現金、カード類が入ったキャッシュベルト(腹巻き)を装着し、メトロ(地下鉄)バスの共通一日券を片手に巻き付け、いざコロッセオ(円形闘技場)へ向けて重装歩兵のように出発しました。
地下鉄のメトロBラインでテルミニ駅から2つ目、コロッセオ駅から徒歩ですぐ到着。
今思えば、近いから歩いても行けたのですが、せっかく一日券を購入したのに、「利用しないともったいない」というケチ根性というか貧乏性からメトロで向かいました。
地下鉄の階段を上がり、路上に出ると、眩しい太陽の光とともに目の前にはなんとあの世界史の資料集で見たコロッセオが。
「わーすごい!本物のコロッセオだ!」私は二千年前に建てられた巨大な建造物の圧倒的な迫力の前に、ただ立ち尽くすのみで、その時の衝撃と感動は今でも記憶に強く残っています。
当時は中に入るのも無料だったので、コロッセオ内部のアレーナ、客席まで見ることが出来ました。現在は、入場料がかかるようです。
参考までにコロッセオ(Colosseo)は英語で競技場を指す(Colosseum)コロシアムの語源にもなっています。
ローマ帝国時代には、奴隷であった剣闘士同士の戦いや、剣闘士対動物の戦い、またキリスト教徒を迫害していた時代には、キリスト教徒を猛獣に襲わせたり、処刑したりしていた場所です。
「パンとサーカスを!」と言われたように当時のローマは食料と娯楽施設の利用は無料だったそうで、それはローマ市民の政治への不満をそらすための愚民政策であった訳です。
その後、中世にかけて、バチカン市国にあるサンピエトロ大聖堂の建設の為の採石場として使用され続け現在の姿をとどめています。
様々な感慨に耽りながらコロッセオを堪能した私たちは、お決まりの日本語ガイドブックとハガキを買い求め、次の目的地であるトレビの泉へと移動すべく地図を片手に歩き出したのでした。
知らないって、もったいない
翌朝、せっかくフィレンツェに来たのだから街中を散策してからローマに向かおう!
というわけで地図を片手にサンタマリア=ノヴェッラ駅近くのホテルを出発して、街の中心部、大聖堂(ドゥオモ)とヴェッキオ宮殿、シニョーリア広場、アルノ川にかかるヴェキオ橋まで(ヴェッキオ=古い)お散歩しました。
当時はフィレンツェについても知識が無かったので、古そうな建物の回廊に並ぶ石像を横目に「随分立派な建物だね~。何だろうね。」と、かの有名なウフィッツィ美術館と沢山の歴史上の著名人たちの作品群を景色の一つくらいに考えてそのまま通り過ぎてしまいました。
そして沢山の商店が立ち並ぶヴェッキオ橋へと向かったのでした。
因みに数年後、旅行会社のツアーコンダクターとしてフィレンツェを訪れるのですが、その頃にはイタリア旅行大ブーム。
ウフィッツィ美術館の見学の為に朝の出発時間を繰り上げて、ホテルを七時前に出発し、更にツアーのお客様、現地のガイドさん達と走って順番待ちの列に並んだり、見学までに二時間近くも並んだりして、苦労しました。
そんな時は、若かりし頃の無知な自由旅行を懐かしく思い出したりもしました。
さらりとフィレンツェ散策を終えて次の目的地、ローマへと旅を続けたのでした。
フィレンツェ~ローマ間は、特急列車のインターシティ(IC)で約二時間。
ついに永遠の都ローマのテルミニ駅に到着しました。付いて早々駅周辺で宿探し。
「地球の歩き方」情報を頼りに、地図を見ながら目星をつけたホテルに行き、宿を確保しました。
部屋は小さかったですが日中は観光に動き回っているし、シャワーが浴びれて、そこそこ清潔で、鍵がかかれば良しというくらいで決めました。
ところが部屋に入って「ゲゲっ!」と仰天。
なんと、無理やり後付しけた昔の電話ボックスのようなスケスケのシャワールームが小さい部屋をほぼ占拠!しかし女二人だし、旅の疲れもあり、そのうち気にもならなくなり、ベットに寝転がりテレビを観たり、ガイドブックを読んだりしていました。こうして旅慣れていった訳です。
世界史資料集表紙のピサ!
スイスからの寝台列車でミラノに到着。ヨーロッパ大陸のイタリア玄関口なので、映画に出てくるような、とても大きくステキな駅でした。
ファッションの街ミラノ。高級ブティックが立ち並び、お洒落なミラネーゼ達が女性雑誌に登場する街として世界的にも有名ですが、当時は貧乏バックパッカー。
Tシャツとジーパンだけで、旅していた私達には、一切縁の無い街。
レオナルドダビンチの最後の晩餐は見たかったのですが、優先順位としてはあまり高くなかったので、特にどこも観光する事無く、乗継ぎ駅としてそのままローマ目指してイタリア半島を南下して行きました。
次の目的地はピサの斜塔。ピサの街は小さく、ホテルも少なかったので、駅のコインロッカーに荷物を預けて、駅から斜塔まで歩いて行きました。
世界史の資料集の表紙に載っていた写真のイメージでは、とっても大きい斜塔と広い広場がすぐ近くにある、と勝手にイメージしていたのですが、地図を頼りに駅から三十分くらい歩いてもいっこうに斜塔らしき塔も見えず・・・。
不安になりながらもひたすら進んで行きました。 ようやく城壁が見えてきて斜塔は中世からそのまま残っている城壁に囲まれた広場の中にありました。
「やっと着いた!ヤッター!」という喜びとともに浮かんだ思いは、「なんか傾いているけど、想像していたよりは、小さいな~。」という印象でした。
当時は、階段で登ることが出来たので、私達は怖いもの見たさにドキドキしながら斜塔に登りました。
因みに斜塔だけが有名になっていますが、広場にはピサ・ロマネスク様式の大聖堂(ドゥオモ)、洗礼堂、納骨堂と共に大聖堂の鐘楼として斜塔があります。
是非、斜塔だけでなく大聖堂も訪れて来て下さいね! かの有名なガリレオ・ガリレイが「振り子の原理」を発見したのは、この大聖堂の天井からつりさげられたランプが揺れ動くのを神父様の説法中に見て発見したと言われています。
帰りは駅前までの路線バスに乗りピサ駅に戻り、その日はフィレンツェに宿を取りました。
ヨーロッパの寝台列車 Vol.8
スイスの大自然を満喫した次の目的地は、南下してすぐの隣国イタリアです。
イタリアと言っても当時は現在ほど人気のある旅行スポットではなく、ヨーロッパ旅行といえば、ロンドン、パリ、ローマ等の大都市巡りが主流でした。
私達もイタリアの行き先を考えた時に必ず行きたいと思ったのは、世界史の授業で使った資料集の表紙「ピサの斜塔」とローマの「コロッセオ」でした。
他にも行きたい街はありましたが、何しろ今回の自由旅行はまだこれからフランス南部、スペインへも行く予定でしたので、イタリアではメインスポットを上記の2ヶ所に絞りました。
スイスから夜行寝台列車でミラノに向かいました。
夜の9時に出発して、翌朝6時頃にイタリアのミラノ中央駅に到着する。
ホテルに泊まるよりも有効に時間を使えるので、今回の旅行では、何度も寝台夜行列車を利用しました。寝ている間に違う国に移動しているなんてちょっと素敵じゃないですか?
ここで余談。寝台夜行列車は、だいたい一つのコンパートメントに二段ベッドが二つ向かい合って並んでいて四名定員。
各車両に、トイレと洗面所があり、快適と言えないまでも、一人のスペースは確保できるし、二段ベッドにはカーテンもついていて中から鍵をかけることができるので、横になって体を休めることは出来ました。
それでも列車内での盗難には注意して貴重品はキャッシュベルト(いわゆる腹巻き)に入れ、身体につけていました。
といっても、こっちに来てからはずっと命の次に大事なパスポート、現金は肌身離さず腹巻きに入れていて、カバンの中にはその日に使う分のお金しか入れないようにしていました。
いよいよスイスからイタリアに入る国境で、国境の税関職員が車掌と一緒に回って来ました。
パスポートの提示を求めたので、私はおもむろに腹巻きからパスポートをゴソゴソ出し提示。
笑顔でポンッとスタンプを押してもらいました。 なんとも簡単な出入国。
当時から、日本人は信用されていたので、特に入国の際にトラブルになることはありませんでした。
スイス人ってうらやましい
翌朝、親切なスイスのご家族、陽気なブラジルの皆さんとお別れして、元気に旅立ちました。
ところで、皆さんはスイスではどんな言葉が話されているかご存知でしょうか?
スイス語?ってないですよね・・・。
なんとスイスには母国語は無く、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語(一部の山間部)という四つの言語がドイツ、フランス、イタリアに近い地域で話されているのです!
ですから、TV番組も多種多様。更にスイス人は、英語も含めた三~四か国語を当たり前のように話せるのです。とはいえ、スイス訛りがあるようで、母国語の方からすると、ちょっと違うようです。いずれにしても自国語を持たなくても便利でいいな~など羨ましく思いました。
話を旅に戻しまして、スイスと言えば、
アルプスの少女ハイジに出てきた広大な風景ですよね。
ツェルマット、マッターホルン、モンブラン等々、
世界的に有名な山々を背景にのんびりとカウベルを鳴らして草を食む牛、点在する民家。
このおなじみのスイスの景色はどこに行けば見られるのか色々と調べた結果、ベルナー・オーバーランドという場所だと分かり、旅の目的地にしました。
この地は四〇〇〇m級のアルプスとグリンデルワルド、
ラウターブルンネン等の村がある第一級の観光地。
私たちは二つの湖の間にあるインターラーケンという町から、
登山列車を何度か乗り換え、約2時間程で標高三四五四mの山頂、
ユングフラウヨッホ駅に到着しました。
ところが、真夏なのに山頂部には残雪が残り、とにかく寒い!
くしゃみと鼻水が止まらず、景色を楽しむどころではなく、
逃げるように下界に降りました。
夏の気温に戻り、若さのおかげで体調はすっかり治っていました。
ベルナー・オーバーランドへお出かけの際は、
厚めのジャンバーを絶対持参しましょう!
また、富士山よりも標高が高く空気も薄いので、
体調によっては軽い高山病にかかってしまう場合がありますから、
山頂では、走ったり、お酒を飲んだり、煙草を吸うのはやめましょうね!
まさかのブラジリアンナイト
パリからスタートした初めてのヨーロッパ鉄道女二人旅。旅の期間は、約三週間。話を進める前にプランをここでざっとお話します。
行き先は、二人の行きたい場所+語学学校で知り合ったお友達の家に無料で泊めてもらう、というかなり図々しくも強引な基準で、次のような周遊行程となりました。
【フランス】パリ~【スイス】ジュネーヴ~ローザンヌ~ベルン~インターラーケン~【イタリア】ミラノ~フィレンツェ~ピサ~ローマ~~【フランス南部】モンペリエ~【スペイン】北カタルーニャ地方フィゲラス~バルセロナ~バレンシア~マラガ~グラナダ~マドリッド~ドーヴァー海峡~カレー~イギリスのHastingsに帰着。
この旅程の順を追って引き続きお話を続けていきたいと思います。
パリは、華の都と言うだけあって、沢山の美術館、教会、歴史的建造物等で溢れ、どこを観ても、通っても絵になる風景ばかり。カメラのフィルムがいくつあっても足りないぐらいでした。
旅三日目、パリからフランスの誇る新幹線TGVに乗ってスイスへと向かいました。
スイスでは、ジュネーヴ近郊のニューシャテルという小さな町に住むみさこさんのスイス人の男のお友だちの家にお泊りさせてもらうことになっていました。
しかしここでハプニング発生。
私たちが到着するとすでに、二人のブラジル人が彼の家に・・。そうです、まさかのダブルブッキングでした。まだ旅に不慣れだった当時の私は「泊まれないかも・・・」と一瞬フリーズ。
しかし、彼の家族の心もお家もとても広かったので、ブラジル人のお友達共々(もちろん別々の部屋で)お泊りさせて頂く事ができました。
その晩は、ギターを持った陽気なブラジル人二人組のお蔭ですっかりスイスナイトではなく陽気なブラジリアンナイトに。
ワールドワイドな出会いに楽しく夜を明かすことができました。
■
語学学校のクラスメイトは次々と入れ替わり、出会いと別れを繰り返す三ヶ月。気がつけばもう七月、学校の中でも古株生徒となり、夏休みも間近となっていました。
イギリスに来た第一の目的は語学の習得。しかしヨーロッパのいろいろな国々を回り見聞を広げる事も目的の一つ。語学学校で知り合った仲間たちの故郷を訪問しながら二~三週間かけて鉄道で回りたいな~、と思いつつもさすがに一人旅は何かあった時に困るので、まずは旅の仲間探しから始めました。
そして日本人のみさこさんと二人旅に出かける事にしました。
旅行について調べるうちに欧州各国を周遊できるユーレイルパスという特別切符がある事を知り、その切符を妹に日本から郵送してもらいました。
そして、準備も整い”Thomas Cook欧州鉄道時刻表”とその当時バックパッカーの必需品だった”地球の歩き方欧州編”を片手に欧州周遊に旅立ちました。
ヘイスティングスに近い港町のニューヘヴンからドーヴァー海峡をフェリーで二時間、フランスの港町ディエッペまで渡りました。そこから列車に乗る事三時間、花の都パリに無事到着。その日は安いホテルがある学生街のカルチェラタン近隣に宿泊し、翌日に備えて早々に床に就きました。
翌日、一日では絶対に回りきれないルーブル美術館とオルセー美術館をまずは流し見してからエッフェル塔まで行き、有料のエレベーターを避けて上まで1652段の階段を上りました。
それから、”バトームッシュ”というセーヌ川クルーズに搭乗。所要時間1時間15分、料金950円の出費(今はもっと高いと思います)。
できるだけ支出は抑えたかったのですが、セーヌ川はパリの中心を流れている事から、このクルーズではほとんどの観光名所を巡る事ができるので、奮発しました。
おかげで船上から土地勘を掴む事ができたので、パリの街をすっかり満喫する事ができました。