ノリコ=ポーロの西方見聞録

勉強できない、英語しゃべれない、でも広い世界へ飛び出したい!との思いから、添乗員となり世界中アチコチ飛び回り、様々な人たちとの出会いや交流、旅のドタバタ劇などをご紹介していきます。このブログは、星野管工(株)発行のホシカン通信に掲載しているコラムのバックナンバーです。

南フランスの思い出・・・

 ローマから寝台特急に乗り込み、
イタリア半島を北上してフランス南部にある小さな街
モンペリエを目指して出発して行きました。

 

 寝心地の余り良くない寝台ですが、
そろそろ旅の疲れも出てきた私達は、
翌日の朝から活動する為にも、眠りにつきました。

 

 南フランスと言えば、プロヴァンス地方、
モナコ公国、ニース、マルセイユと海岸沿いに
華やかなリゾート地が続きますが、

語学学校で知り合ったフランス人の女の子が、
モンペリエという街の出身だという事で、
突撃お宅訪問のヨネスケのように半ば無理やりに訪問し、
図々しくもお泊りさせて貰うことにしました。

 

 ただ、どのような街だったのか余り覚えていなくて・・・。

 

  お友達の名前すら忘れてしまいました。
ありがとう!マリールイーズ(仮称)としておきましょう!

 

 当時の私の知識は、
モナコ公国がF1モナコグランプリの開催地である
という事ぐらいしかなかったので、
車窓からの海辺の景色を眺めながら、
「いつかはこんな素敵な高級リゾート地にきてみたいな~!」
と憧れを抱きつつ、車窓の景色を楽しんでいたのでした。

 

 そして、翌日はいよいよスペインを目指して、
モンペリエを出発したのです。

 

 私達がまず向かったのは
かの有名なサルバドール=ダリの美術館がある
スペイン東部カタルーニャ地方のフィゲラスという街でした。

 

 何故この街に立ち寄ったかも定かではありませんが
目的地のバルセロナへの途上にあったので、
せっかくだから寄り道してみよう!
となったのだと思います。

 

 芸術に無頓着な私なので、
すごいなーくらいしか覚えていないのですが、
最近知ったこととして、
スペインの棒付きキャンディーの
チュッパチャプス のデザインロゴの原型を製作したのは、
ダリだったそうです。

 

パッケージデザイナーとしても
すぐれた手腕をダリは発揮したのですね、

なんとも驚きでした。

バチカン市国、おすすめの場所

 スペイン階段から、今度は地下鉄に乗り、目指すはキリスト教カトリック教会の総本山。バチカン市国の中にあるサンピエトロ大聖堂です。

 

 バチカン市国イタリア共和国の中、ローマ市内にある世界最小の国です。もちろん、イタリア語、通貨もイタリアリラが使用できました。

 

 サンピエトロ、つまり聖ペテロはキリストの一番弟子であり、初代ローマ法王です。

 そのペテロがネロ帝(在位西暦五四-六八年)の時代に殉教し、その殉教の地に墓がつくられ、その墓の上に建てられたのがこのサンピエトロ大聖堂です。

 

 サンピエトロ大聖堂を訪れることは、初代ローマ法王ペテロから現在の第266代法王フランシスコまでの、二千年に及ぶローマ教会の歴史そのものを訪れることとも言えるわけで地下には歴代の法王たちの亡骸が安置され、見学することができます。

 

 中でも一番私達を圧倒したのは大聖堂の内部。ルネッサンス時代の巨匠ミケランジェロの描いた豪華で壮大な天地創造に始まる聖書を描いた天井画の装飾です。キリスト教徒では無いですが、流石に厳かな気持ちになりました。

 

 

 因みに、ヨーロッパの教会に行く時は、ノースリーブ、短パンのような露出の多い恰好では中に入場出来ません。夏場は、女性の方は特に気を付けてください。ノースリーブの時でも一枚大きなスカーフをバッグの中に入れておくと肩にかけたり、短いスカートの場合は、腰に巻いたりととても便利です。教会は神聖な祈りを捧げる場所であり、観光客の為の場所では無い、という意識を持ってお出かけして下さいね。

 

 そして、是非お勧めなのが大聖堂のクーポラ(球体)。

 

 上に向かってエレベーターと螺旋階段を登って行くとローマ市内の景色とクーポラ内部に描かれた壁画を間近に見ることが出来ます!

 

 ただし、螺旋階段は、細くて狭いので早く登ると目が回ります。ローマ滞在中の自由時間があればチャレンジしてみてくださいね!

ホントに写真はよく見える 〜トレビの泉〜

 コロッセオから地図を片手にフォーロ=ロマーノ遺跡(Foro Romano:ここは、ローマ帝国時代の政治の中心地であった場所)を横目にみながら、トレヴィの泉を目指して歩いて行きました。

 

 ローマはイタリアの首都だけあり、車の交通量も多いのですが、運転も荒っぽく、あちらこちらでクラクションが鳴り響いていて、横断歩道を渡るのも他の人たちと一緒に渡らないと危いので、気合を入れて街の中心部目指して行きました。

 

 ローマの市街地は古代ローマ時代の遺跡が街のあちこちに点在していて、更には中世の歴史的な石造りの重厚な建物が多く、空があまり見えず、まるで迷路のよう。

 

 そんな状態なので、トレヴィの泉を目指しているであろう団体観光客の後について行き、ようやくトレヴィの泉の前に到着しました。

 

 写真のイメージだと、何か広大な公園の敷地内にでもあるのかと思っていたのですが、このトレヴィの泉も想像していたのと違い、商店、住宅地の密集地の真ん中に突然現れて、ピサの斜塔同様に「え〜、狭い!」驚いたものです。

 

 それでも折角来たので、お約束の行為をガイドブックの記述通りにしよう、と二人して泉を背に後ろ向きに立ち、コインを右手に持ち左の肩越しに泉に投げ入れました。  

 

 ちなみにこのコイン、一枚で再びローマに戻って来ることが出来る。二枚だと恋人に巡り合える。三枚で離婚出来る・・・いくつ投げるかは、あなた次第です・・・。

 

 プチ観光情報として、トレヴィの泉のすぐそばにあるジェラート屋(Gerato:アイスクリーム)さんのジェラートは本当に種類が多く、美味しいので訪れたら是非ご賞味してみてください!

 

 さて、無事にコインも投げたし、次はスペイン階段へ。かの有名なオードリー=ヘップバーンの映画「ローマの休日」で出てきましたが、トレヴィの泉から歩いて十分位の場所。街中の賑やかな土産物店をみながら、すぐです。

 

 実際は沢山の観光客がびっちり腰かけていて、どこが階段なのかわからないほどの人だかりでしたが、一応、有名な名所ということでカメラに写真をパチリと残して、スペイン階段を後にしました。

永遠の都 ローマ

 翌朝、スリ、ひったくりでも世界的に有名な永遠の都ローマの街を観光するため、リュックサックに小さく折りたたんだ市街地図を入れ、パスポート、現金、カード類が入ったキャッシュベルト(腹巻き)を装着し、メトロ(地下鉄)バスの共通一日券を片手に巻き付け、いざコロッセオ円形闘技場)へ向けて重装歩兵のように出発しました。

 

 

 地下鉄のメトロBラインでテルミニ駅から2つ目、コロッセオ駅から徒歩ですぐ到着。

 今思えば、近いから歩いても行けたのですが、せっかく一日券を購入したのに、「利用しないともったいない」というケチ根性というか貧乏性からメトロで向かいました。

 

 地下鉄の階段を上がり、路上に出ると、眩しい太陽の光とともに目の前にはなんとあの世界史の資料集で見たコロッセオが。

 「わーすごい!本物のコロッセオだ!」私は二千年前に建てられた巨大な建造物の圧倒的な迫力の前に、ただ立ち尽くすのみで、その時の衝撃と感動は今でも記憶に強く残っています。

 

 当時は中に入るのも無料だったので、コロッセオ内部のアレーナ、客席まで見ることが出来ました。現在は、入場料がかかるようです。

 

 参考までにコロッセオ(Colosseo)は英語で競技場を指す(Colosseum)コロシアムの語源にもなっています。

 ローマ帝国時代には、奴隷であった剣闘士同士の戦いや、剣闘士対動物の戦い、またキリスト教徒を迫害していた時代には、キリスト教徒を猛獣に襲わせたり、処刑したりしていた場所です。

 「パンとサーカスを!」と言われたように当時のローマは食料と娯楽施設の利用は無料だったそうで、それはローマ市民の政治への不満をそらすための愚民政策であった訳です。

 その後、中世にかけて、バチカン市国にあるサンピエトロ大聖堂の建設の為の採石場として使用され続け現在の姿をとどめています。

 

 様々な感慨に耽りながらコロッセオを堪能した私たちは、お決まりの日本語ガイドブックとハガキを買い求め、次の目的地であるトレビの泉へと移動すべく地図を片手に歩き出したのでした。

知らないって、もったいない

 翌朝、せっかくフィレンツェに来たのだから街中を散策してからローマに向かおう!

 というわけで地図を片手にサンタマリア=ノヴェッラ駅近くのホテルを出発して、街の中心部、大聖堂(ドゥオモ)とヴェッキオ宮殿、シニョーリア広場、アルノ川にかかるヴェキオ橋まで(ヴェッキオ=古い)お散歩しました。

 

 

 当時はフィレンツェについても知識が無かったので、古そうな建物の回廊に並ぶ石像を横目に「随分立派な建物だね~。何だろうね。」と、かの有名なウフィッツィ美術館と沢山の歴史上の著名人たちの作品群を景色の一つくらいに考えてそのまま通り過ぎてしまいました。

 そして沢山の商店が立ち並ぶヴェッキオ橋へと向かったのでした。

 因みに数年後、旅行会社のツアーコンダクターとしてフィレンツェを訪れるのですが、その頃にはイタリア旅行大ブーム。

 ウフィッツィ美術館の見学の為に朝の出発時間を繰り上げて、ホテルを七時前に出発し、更にツアーのお客様、現地のガイドさん達と走って順番待ちの列に並んだり、見学までに二時間近くも並んだりして、苦労しました。

 そんな時は、若かりし頃の無知な自由旅行を懐かしく思い出したりもしました。

 さらりとフィレンツェ散策を終えて次の目的地、ローマへと旅を続けたのでした。

 

 フィレンツェ~ローマ間は、特急列車のインターシティ(IC)で約二時間。

 ついに永遠の都ローマのテルミニ駅に到着しました。付いて早々駅周辺で宿探し。

 「地球の歩き方」情報を頼りに、地図を見ながら目星をつけたホテルに行き、宿を確保しました。

 部屋は小さかったですが日中は観光に動き回っているし、シャワーが浴びれて、そこそこ清潔で、鍵がかかれば良しというくらいで決めました。

 ところが部屋に入って「ゲゲっ!」と仰天。

 なんと、無理やり後付しけた昔の電話ボックスのようなスケスケのシャワールームが小さい部屋をほぼ占拠!しかし女二人だし、旅の疲れもあり、そのうち気にもならなくなり、ベットに寝転がりテレビを観たり、ガイドブックを読んだりしていました。こうして旅慣れていった訳です。

世界史資料集表紙のピサ!

 スイスからの寝台列車でミラノに到着。ヨーロッパ大陸のイタリア玄関口なので、映画に出てくるような、とても大きくステキな駅でした。

 

 ファッションの街ミラノ。高級ブティックが立ち並び、お洒落なミラネーゼ達が女性雑誌に登場する街として世界的にも有名ですが、当時は貧乏バックパッカー

 

 Tシャツとジーパンだけで、旅していた私達には、一切縁の無い街。

 

 レオナルドダビンチの最後の晩餐は見たかったのですが、優先順位としてはあまり高くなかったので、特にどこも観光する事無く、乗継ぎ駅としてそのままローマ目指してイタリア半島を南下して行きました。  

 

 次の目的地はピサの斜塔。ピサの街は小さく、ホテルも少なかったので、駅のコインロッカーに荷物を預けて、駅から斜塔まで歩いて行きました。

 世界史の資料集の表紙に載っていた写真のイメージでは、とっても大きい斜塔と広い広場がすぐ近くにある、と勝手にイメージしていたのですが、地図を頼りに駅から三十分くらい歩いてもいっこうに斜塔らしき塔も見えず・・・。

 

 不安になりながらもひたすら進んで行きました。  ようやく城壁が見えてきて斜塔は中世からそのまま残っている城壁に囲まれた広場の中にありました。

 

「やっと着いた!ヤッター!」という喜びとともに浮かんだ思いは、「なんか傾いているけど、想像していたよりは、小さいな~。」という印象でした。

 

 当時は、階段で登ることが出来たので、私達は怖いもの見たさにドキドキしながら斜塔に登りました。

 

 因みに斜塔だけが有名になっていますが、広場にはピサ・ロマネスク様式の大聖堂(ドゥオモ)、洗礼堂、納骨堂と共に大聖堂の鐘楼として斜塔があります。

 

 是非、斜塔だけでなく大聖堂も訪れて来て下さいね!  かの有名なガリレオ・ガリレイが「振り子の原理」を発見したのは、この大聖堂の天井からつりさげられたランプが揺れ動くのを神父様の説法中に見て発見したと言われています。

 

 帰りは駅前までの路線バスに乗りピサ駅に戻り、その日はフィレンツェに宿を取りました。 

ヨーロッパの寝台列車 Vol.8

 スイスの大自然を満喫した次の目的地は、南下してすぐの隣国イタリアです。

 イタリアと言っても当時は現在ほど人気のある旅行スポットではなく、ヨーロッパ旅行といえば、ロンドン、パリ、ローマ等の大都市巡りが主流でした。

 私達もイタリアの行き先を考えた時に必ず行きたいと思ったのは、世界史の授業で使った資料集の表紙「ピサの斜塔」とローマの「コロッセオ」でした。

 他にも行きたい街はありましたが、何しろ今回の自由旅行はまだこれからフランス南部、スペインへも行く予定でしたので、イタリアではメインスポットを上記の2ヶ所に絞りました。

 

 スイスから夜行寝台列車でミラノに向かいました。

 夜の9時に出発して、翌朝6時頃にイタリアのミラノ中央駅に到着する。

 ホテルに泊まるよりも有効に時間を使えるので、今回の旅行では、何度も寝台夜行列車を利用しました。寝ている間に違う国に移動しているなんてちょっと素敵じゃないですか?

 

 ここで余談。寝台夜行列車は、だいたい一つのコンパートメントに二段ベッドが二つ向かい合って並んでいて四名定員。

 各車両に、トイレと洗面所があり、快適と言えないまでも、一人のスペースは確保できるし、二段ベッドにはカーテンもついていて中から鍵をかけることができるので、横になって体を休めることは出来ました。

 それでも列車内での盗難には注意して貴重品はキャッシュベルト(いわゆる腹巻き)に入れ、身体につけていました。

 といっても、こっちに来てからはずっと命の次に大事なパスポート、現金は肌身離さず腹巻きに入れていて、カバンの中にはその日に使う分のお金しか入れないようにしていました。

 

 いよいよスイスからイタリアに入る国境で、国境の税関職員が車掌と一緒に回って来ました。

 パスポートの提示を求めたので、私はおもむろに腹巻きからパスポートをゴソゴソ出し提示。

 笑顔でポンッとスタンプを押してもらいました。 なんとも簡単な出入国。

 当時から、日本人は信用されていたので、特に入国の際にトラブルになることはありませんでした。